ご宗派は何ですか?
ご宗派は何ですか?
天台宗
高祖 |
天台大師智(538〜597) |
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宗祖 |
伝教大師最澄(767〜822) |
総本山 |
延暦寺:滋賀県大津市坂本4-6-2 |
本尊 |
座釈迦、座弥陀が基本ですが、観音菩薩、不動明王でもよいとされます。 |
脇侍 |
向かって右に天台大師、左に伝教大師。 |
唱名 |
南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ) |
歴史
天台宗の名のルーツは中国の浙江省天台県にある天台山にあります。中国隋代に天台宗を開いた天台大師智は、天台山を修業の地に定め根本道場を開いたため、天台大師と呼ばれ、またその系譜を天台宗と呼ぶようになりました。わが国に天台宗を開いた伝教大師最澄も、中国に留学中に天台山で修業しています。
最澄は、天平神護2年(766)近江国に生まれました。長じて、当時のさまざまな仏教を学び修業した最澄はやがて天台大師の教えに出会い、なんとしても中国に渡り天台宗の極意を学ばなければならないと決意、留学を果たします。そして、中国で研鑽を重ねた後、多くの仏教典籍とともに帰国し、日本に天台宗を開くのです。開宗は、延暦25年(806)1月26日とされています。
その後、慈覚大師円仁・智証大師円珍・五大院尊者安然・慈彗大師良源・恵心僧都源信・慈限大師天海らの名僧によって天台宗は発展を遂げることになります。
教え
「妙法蓮華経(法華経)」こそ、仏陀の教えの究極を説いたものとします。
この法華経を中心に、菩薩戒・顕教・密教・禅法などを融合した総合仏教といえます。
これを「四相相承」と言い、円・蜜・前・戒、そして念仏を法華経の精神で統合していこうというものです。
そして、すべての人、生物、存在には仏になる可能性があると教えています。
天台宗宗憲には「天台宗は宗祖大師立教開示の本義に基づいて、円教・密教・禅法・戒法・念仏等いずれも法華一乗の教意をもって融合しこれを実践する」とあります。
真言宗
宗祖 |
弘法大師空海(774〜835) |
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総本山 |
真言宗には多くの派がありますが、ここでは十派だけをあげておきます。
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本尊 |
大日如来 |
脇侍 |
不動明王 |
唱名 |
南無大師遍照金剛(なむたいしへんしょうこんごう) |
歴史
7世紀中頃のインドで、当時衰退の傾向にあった仏教の復興運動がおきました。この運動によって密教が盛んになり、西インドで『大日経』が、南インドで『金剛経』が成立します。『大日経』は善無畏三蔵によって陸路で、『金剛経』は金剛智三蔵によって海路で中国に伝えられました。中国に伝わった密教は、初めこの2派に分かれていましたが、空海の師匠である恵果和尚によって統一されます。
弘法大師空海は宝亀5年(774)讃岐国に生まれ、15歳で都にのぼり、仏教をはじめさまざまな学問を学び、各地の山野で修業しました。そして密教の実践を学ぶため中国へ留学、恵果に入門します。恵果は空海に会うなり「私はあなたが来るのを待っていました。すぐに密教の奥義を伝えましょう」と言ったそうです。つまり恵果は1000人を超える弟子の中から、正統な密教の継承者として空海を選んだのです。空海は帰国後、全国行脚を経て真言宗を開きます。真言宗は興教大師覚鑁が高野山座主の時に古義と新義にに分かれ、その後さらに分化し多くの派が生まれてゆきます。
教え
真言宗は真言密教とも言い、「即身成仏」を教えの根幹にしています。これは密教の修行の実践により、誰でもただちに仏になることができるいう教えです。密教の修行とは、身体の修行である身蜜、言葉の修行である口蜜、心の修行である意蜜で、合わせて身口意の三蜜修行とと呼ばれています。
浄土宗
開祖 |
開祖円光大師法然(1133〜1212) |
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総本山 |
知恩院:京都市東山区新橋通大和大路東入ル |
本尊 |
阿弥陀如来 |
脇侍 |
向かって右に善導大師、左に法然上人。 |
唱名 |
南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ) |
歴史
浄土宗の宗祖法然は、長承2年(1133)美作国に生まれました。幼くして父を失った法然は遺言にしたがって仏の道を志します。叔父の観覚のもとで仏教を学んだ後、比叡山東塔西谷功徳院の皇円のもとで出家します。しかし、当時の比叡山は僧侶達が権力闘争に明け暮れる状況にありました。そこで法然は、比叡山のなかでも真摯に仏教を求める僧侶が集う西塔の黒谷別所で慈眼房叡空に入門します。それから25年間、救いの道を求めて苦悶しながら、ひたすら仏道を追い求めます。
そしてついに43歳の時、善導大師の「一心に阿弥陀仏の名をたたえて念仏を唱えれば極楽往生できる」という教えに触れ、浄土宗を開宗します。この「念仏を唱えれば救われる」という教えはまたたく間に広まりました。しかし、規制宗派から「伝統的な仏教を否定するもの」として弾圧を受け、讃岐に流罪になります。後に許されて京都へ戻り、現在の知恩院の地で80歳の生涯を閉じます。法然の死後、弟子達によって浄土宗はさらに広まってゆきました。
教え
阿弥陀如来が西方十万憶土のかなたにつくられた、浄らかな極楽浄土に往生することを説く教えです。極楽浄土に往生し、そこで阿弥陀如来の説法を聞いて仏になるのです。
極楽浄土に往生するためには阿弥陀如来の救いを信じて「南無阿弥陀仏」と唱えることが大切だと、法然上人は教えています。阿弥陀如来の救いを信じ、南無阿弥陀仏を唱えていると、心も体も清らかになり、人生を心豊かに生きぬき、死後浄土に生まれて仏さまになることができるのです。
浄土に生まれれば、いつまでも浄土に居られるのですが、仏さまとしてこの世に帰ってきて、まだ救われない人々を救うこともできるというのが、浄土宗の教えです。
融通念仏宗
宗祖 |
良忍上人(1072〜1132) |
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総本山 |
大念仏寺(大阪市平野区平野上町1-7-26) |
本尊 |
十一尊天得如来像 |
脇侍 |
向かって右に良忍上人、左に法明良尊。 |
唱名 |
南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ) |
歴史
崇徳天皇の大治二年(1127)、鳥羽上皇の勅願を豪り、宗祖良忍上人によって開創された。かねて聖徳太子信仰の篤かった良忍上人が念仏勧進の途次、大師の夢のお告げを受け、平野の地で大念仏会を修したところ、大いに盛況を呈し念仏の根本道場としたのが始まりである。
大念仏寺の地は坂上田村麿の第二子広野公の菩提所修楽寺の別院であったところと伝えている。その後、世代が下り寺勢は振るわなかったが、元亨元年(1321)、第七世法明上人がこれを中興して寺域を拡大し、堂塔を壮麗にしたが、たびたびの兵火に遇い荒廃していたのを、寛文七年(1667)、第四十三世舜空上人が大堂建立し、次いで元禄年間、第四十六世大通上人は諸堂を常備し、法儀の要具を完備して、一宗の本山として体裁が整えられた。二万四千平方メートル(約7300坪)の境内に、大小三十余の堂舎が甍を並べている。
教え
阿弥陀如来が西方十万憶土のかなたにつくられた、浄らかな極楽浄土に往生することを説く教えです。極楽浄土に往生し、そこで阿弥陀如来の説法を聞いて仏になるのです。
「一人がとなえる念仏は万人の念仏となり、万人の念仏もまた一人の念仏となる」という、「念仏は融通し合っている」という考え方を阿弥陀如来仏から感得したこの教えは「一人一切人 一切人一人 一行一切行 一行切一行 是名他力往生 十界一念 融通念仏 億百万遍 功徳円満」という文でも表現されています。良忍は、自ら念仏を他人に分け合い、共に極楽浄土の門をくぐろうという教えを実践しました。
浄土真宗本願寺派(西)
開祖 |
見真大師親鸞(1173〜1262) |
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総本山 |
西本願寺 京都市下京区堀川通花屋町下ル |
本尊 |
阿弥陀如来 |
脇侍 |
向かって右に、親鸞聖人(又は十字名号「帰命尽十方無碍光如来」 |
唱名 |
南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ) |
歴史
承安3年(1173)、親鸞は京都に生まれ9歳で得度しました。その後20年間に亘り比叡山で修業をつづけますが、やがて比叡山の仏教に絶望し、浄土宗の宗祖法然を訪ねます。そこで法然の専修念仏の教えに感銘し入門します。
しかし、念仏禁止令が発布され、越後に流罪。流罪先で結婚した親鸞は非僧非俗の境地をひらき自らを「愚禿親鸞」と名乗ります。流罪が許された後、妻子を伴って関東で布教を始めます。そして元仁元年(1224)浄土真宗の根本聖典になる『教行信証』を執筆、この年が立教開宗の年とされています。
晩年は家族とともに京都へ帰り、90歳で往生するまで、盛んに執筆活動を行い、同時に関東の弟子達へ手紙で指導を続けました。
親鸞の死後、教団は次第に衰微してゆきますが、第八世蓮如によって再興をはたします。そして、巨大教団へと発展したため、他宗派や大名からの弾圧がはじまります。織田信長の本願寺攻略をはじめとして、時の権力者に翻弄され西本願寺と東本願寺にわかれますが、宗勢は衰えることなく、現在に至ります。
教え
仏さまになるには、修行によって煩悩を断ち切り、善根を積むことが必要である、とされてきました。しかし、今の私達にとって、それを毎日続けるゆくのは非常に難しいことなのではないでしょうか。
阿弥陀如来は、すべてのいのちあるものを救おうという誓い(本願)を立てられました。ことに私たちのような愚かで悩み苦しんでいる衆生こそ救われるべきだと考えました。この阿弥陀如来の誓いを拠り所とする人生こそが、浄土真宗の道なのです。
また浄土真宗では「阿弥陀如来に帰依すると決めた時点で、誰でも仏になることが約束される」とされています。ですから、阿弥陀如来に帰依した後の念仏は仏になるために唱えるのではなく、仏になれた感謝の表現として唱えるものなのです。自分の修行などによって極楽浄土へ往生しようとする「自力念仏」ではなく、阿弥陀如来を信じ感謝の心とともに唱える「他力念仏」が浄土真宗の念仏なのです。
真宗大谷派(東)
開祖 |
見真大師親鸞(1173〜1262) |
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総本山 |
東本願寺:京都市下京区鳥丸通七条上ル常葉町754 |
本尊 |
阿弥陀如来 |
脇侍 |
向かって右に、十字名号「帰命尽十方無碍光如来」(又は、親鸞聖人) |
唱名 |
南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ) |
歴史
承安3年(1173)、親鸞聖人は京都に生まれ9歳で得度しました。その後20年間に亘り比叡山で修業をつづけますが、やがて比叡山の仏教に絶望し、浄土宗の法然上人を訪ねます。そこで法然上人の専修念仏の教えに帰依したのでした。
しかし、専修念仏が禁止され、越後に流罪。その後、親鸞聖人は非僧非俗(僧に非ず俗に非ず)として「愚禿釈親鸞」と名告ります。流罪が許された後、妻子を伴って関東に移り、約20年にわたり教えを広めます。
60歳を超えた頃、京都へ帰り、90歳で亡くなるまで盛んに執筆活動を行い、同時に関東の門弟達へ手紙で教えを説きつづけました。
親鸞聖人の滅後、門弟の力により建てられた大谷廟堂(後の本願寺)は次第に衰微してゆきますが、八代蓮如上人によって再興をはたします。慶長7年(1602年)、東本願寺は、西本願寺と分かれ、現在は親鸞聖人の教えを聞く根本道場・真宗本廟として宗門人の帰依所となっています。
教え
仏さまになるには、修行によって煩悩を断ち切り、善根を積むことが必要である、とされてきました。しかし、それを続けてゆくのは誰でもできることではないでしょう。
そこで阿弥陀如来は、そのような善根を積むことが難しい者こそを、救いの対象にして、浄土を建立したのです。この、阿弥陀如来の建立した浄土に生まれる道を説くのが真宗の教えです。
真宗では「阿弥陀如来に帰依した時点で、誰でも仏になることが約束される」としています。ですから、阿弥陀如来に帰依した後の念仏は仏になるために称えるのではなく、仏になることが決まった感謝の表現として称えるものなのです。自分の修行などによって極楽浄土へ往生しようとする「自力念仏」ではなく、阿弥陀如来を信じ感謝の心とともに唱える「他力念仏」が浄土真宗の念仏なのです。
臨済宗
開祖 |
栄西(1141〜1215) |
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総本山 |
臨済宗には多くの派がありますが、ここでは十四派だけをあげておきます。
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本尊 |
釈迦如来坐像を原則とする。 |
脇侍 |
向かって右に、達磨大師。向かって左に、観音菩薩。 |
唱名 |
南釈迦牟尼佛。(なむしゃかむにぶつ) |
歴史
弟子が師匠から法を受け継ぐことを、特に禅宗では重視します。それは、仏教開祖のお釈迦さまの悟りを引き継いでいる、ということを大切にするからなのです。禅宗はお釈迦さまから28代目にあたる菩提達磨によって中国へ伝えられました。そして、達磨から6代目の六祖慧能、さらに慧能から5代目の臨済義玄に法が引き継がれ、中国に臨済宗が開かれました。日本に臨済宗をもたらした明庵栄西や、円爾弁円は中国へ渡ってこの教えの流れを引き継いだのです。さらに、中国から帰化した蘭渓道隆や無学祖元なども日本へ臨済宗を伝えました。
室町時代には武家の帰依を受けた夢窓疎石らによって臨済宗は発展を遂げ、建築や水墨画、文学などの碑文化が花開きます。また、大応国師、大燈国司、関山慧玄によって「応燈関の法灯」と呼ばれる系譜も形成されます。そして、江戸時代中期に白隠慧鶴によって現在に直接つながる臨済宗の教義が完成したのです。
教え
臨済宗の教えは、人間が生まれながらに、だれもがそなえている厳粛で純粋な人間性をみずから悟ることによって、仏と寸分も違わぬ人間の尊さを把握するところにあります。もちろん禅宗ですから、座禅を最も重視します。臨済宗の禅は、「看話禅」と呼ばれ、師匠が「公案」という問題を出します。弟子はこれを頭だけで理論的に考えるのではなく、身体全体で、理論を越えたところに答えを見いだします。そして、この結果を検証するのが参禅です。師匠と2人きりで対面した弟子が、見解を提示し、これを師匠が確かめるのです。
曹洞宗
高祖 |
常陽大師道元(1200〜1253) |
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開祖 |
常済大師瑩山(1268〜1325) |
総本山 |
永平寺:福井県吉田郡永平寺町志比5-15 |
本尊 |
釈迦如来 |
脇侍 |
向かって右に、道元、向かって左に瑩山。 |
唱名 |
南釈迦牟尼佛。(なむしゃかむにぶつ) |
歴史
8世紀初め頃の中国の禅僧である洞山良价憩の「洞」と、その弟子である曹山本寂「曹」をとって「曹洞」としたのが、曹洞宗の名の由来だと言われています。我が国に曹洞宗を開いた道元は、正治2年(1200)内大臣久我通親の子として京に生まれました。幼くして両親を失った道元は、13歳の時に比叡山に上り、天台教学を学びます。しかし、天台宗に疑問を抱き、18歳で建仁寺に栄西を訪ねます。そして、貞応2年(1223)に中国に渡り、如浄を師として曹洞禅をまなびました。
身心脱落の境地を得て帰国した道元は、宇治に興聖寺を開きます。その後、越前に移り永平寺を建て、自らの理想とする正伝の仏法と弟子の養成につとめました。
道元から4代目瑩山は、多くの優れた弟子を養成しながら大衆教化に」もつとめ、現在、日本最大の寺院数を誇る曹洞宗の素地をつくりました。曹洞宗では道元を宗派の父、瑩山を母にたとえ、両祖と仰いでいます。
教え
曹洞宗の修行の基本は座禅です。修業は座禅だけには限りませんが、ただひたすらに座禅を行うこと(只管打座)を最も重要に考えます。そして、座禅の心とすがたで、日常生活を生きてゆく(即心是仏)ことを説きます。座禅の力は、必ず個人生活・社会生活に現れてきます。つまり座禅と日常生活は一つ(禅戒一如)なのです。ですから日常生活を大切にして、今、ここで生きているかけがえのないいのちを事実のままに生きることことこそが、修行であり、この自己の修行がそのまま仏の行であると教えています。
日蓮宗
宗祖 |
立正大師日蓮(1222〜1282) |
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総本山 |
久遠寺:山梨県南巨摩郡見延町見延3567 |
本尊 |
大曼荼羅 |
脇侍 |
向かって右に、鬼子母神。 |
唱名 |
南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう) |
歴史
日蓮は貞応元年(1222)阿波国(千葉県)に生まれ、12歳で天台宗清澄寺に入り、16歳で得度します。21歳の時に比叡山へ上ると膨大な書物を読破しながら、教えを求めて円城寺、高野山などへも訪れます。こうした修行研鑽を11年間続け、ついに「お釈迦様の最高の教えである『法華経』こそが、救いのよりどころとなる唯一の経典である」という確信を得ました。清澄山頂に戻った日蓮は、建長5年(1253)清澄山頂に登って「南無妙法蓮華経」の題目を高唱し、立教を宣言します。その後、「法華経を広めようとする行者は難にあう」という法華経自体に書かれている予言通り、「松葉谷の法難」「小松原の法難」など数々の何に遭い、死の危険にさらされることになります。
「社会に天災や疫病などが続くのは邪法・悪法がはびこっているからだ。法華経信仰によって国土の安穏をはからなければならない」と説いた「立正安国論」を執権北条時頼に提出すると、その内容を幕府に危険視され伊豆に流罪(伊豆の法難)。さらに「龍の口の法難」では惨殺寸前となりますが稲妻によって奇跡的に逃れ、佐渡に流罪となります。文久11年(1274)ようやくゆるされた日蓮は身延山に入り、61歳で生涯を閉じるまで著作と後進の育成につとめたのです。
教え
主だった日本仏教各宗派の中で、日本人宗祖の名前を冠しているのは日蓮宗だけです。それだけ、宗祖日蓮聖人の存在意義が教義に大きく反映しているのでしょう。
日蓮宗では、お釈迦様の説かれた教えの中でも『法華経』こそが、世の中を救う絶対最高の教えであるとします。その法華経を説かれたお釈迦さまは「久遠実成の本仏」が自身を表した姿です。久遠実成の本仏とは、永遠の昔に悟りを開いた仏さまという意味で、法華経も、本仏が経典として、実態をしめしたものなのです。
法華経を日本に広宣流布した日蓮聖人の教説を通してゆくのが日蓮宗です。法華経は本仏の声そのものであり、法華経の功徳すべてが「南無妙法蓮華経」の七文字にこめられていると日蓮聖人は考えました。そこで、「法華経」の内容をすべて信じ帰依する。」という意味の「南無妙法蓮華経」を唱えることを、何よりも重要な修行としています。
法華宗(本門流)
法華宗には多くの派がありますが、ここでは本門流だけをあげておきます。
宗祖 |
日蓮上人 |
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総本山 |
光長寺(静岡県沼津) |
本尊 |
十界大曼荼羅 |
脇侍 |
向かって右に、日蓮上人 |
唱名 |
南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう) |
歴史
法華宗は、法華経に基づいて信心をすすめ、この世の中に真の幸福な世界を築く事を目的としています。はるか遠い昔からの釈尊のご信仰を受け継いだ、宗祖日蓮上人の教えを、そのまま今に伝える唯一の宗派です。
日本の歴史上では、建長5年(1253年)4月28日に、日蓮上人がはじめて「南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)」と唱えられたときに始まります。
日蓮上人が唱えられた「南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)」というお題目を聞き、信じ、口唱し、多くの人々の心に、仏になるための種子(しゅじ)を植えていくことを信神の生活の根本としています。
教え
法華宗は本門の中でも、従地涌出品第十五から嘱累品第二十二の八品を本地本門(本門八品)と言い、大変重要だと考えています。 それはインドの釈尊が入滅された後の末法(仏法が廃れる)という時代の、我々の成仏について説かれているからです。 教義的には上行付嘱といいますが、本仏釈尊が久遠の昔、宇宙の真理をお悟りになって、あらゆる功徳を南無妙法蓮華経に収め衆生の心田に仏種として植えられました(久遠下種)。
このお題目の特徴は、南無妙法蓮華経は宇宙の真理を顕したものではなく、本仏の慈悲(末法の衆生を必ず成仏させる)と本化の菩薩の誓願(本仏の行化をたすける)宇宙一切の功徳が収められた実体そのものを教えとして説かれたものです。 その修行は本仏と同じ修行(本因下種)でお題目を信じて唱え、唱えて他に聞かす信行下種です。 お題目の信行下種に自ずから成仏が約束される宗旨なのです。