当店の伝統工芸士
当店の伝統工芸士
(財)伝統的工芸品産業振興協会では、経済産業大臣指定の伝統的工芸品の製造に従事されている技術者のなかから、高度の技術・技法を保持する方を「伝統工芸士」として認定しています。
八光堂仏具店では、数ある伝統工芸(織物・陶磁器・漆器など)のなかでも「仏壇・仏具」において、「大阪仏壇木地部門」「大阪仏壇彫刻部門」「大阪仏壇蒔絵部門」の三部門において「伝統工芸士」の認定を受けた職人が、お客様に満足していただける品をお届けできるよう日々尚一層精進のもと製作に取り組んでおります。
伝統工芸士のご紹介
浦林 寿雄
- 昭和63年12月16日
- 大阪仏壇(木地部門)伝統工芸士 認定
竹中 充
- 平成21年12月15日
- 大阪仏壇(彫刻部門)伝統工芸士 認定
車田 次夫
- 平成16年11月5日
- 大阪仏壇(蒔絵部門)技能顕功章授賞
永和信用金庫発行の地元誌で八光堂仏具店の蒔絵士「車田 次夫」が取り上げられました。
永和歴史ものしり展 かわら版[48] 【わが町探訪9 八尾市・久宝寺界隈】平成17年7月
車田次男 プロフィール
- 昭和16年 茨城県生まれ
- 昭和31年 仏壇蒔絵師に弟子入りするため、大阪府八尾市へ。
- 昭和32年 松本仏壇製造所に就職し、11年間の修行を経て独立。
- 昭和55年 仏壇製作の効率化のため松本仏壇製造所内で蒔絵部門の仕事を始めるとともに、同製造所の蒔絵部長を務める。
現在も後進の指導に携わりながら、
・平成15年「八尾市ものづくり達人」、
・平成十六年「大阪府優秀技能者」(なにわの名工)に選ばれ、
近畿圏で一番の蒔絵師と評価されるこの道四十七年のベテラン。
車田次夫さん物語
八尾市・仏壇通り
(八光堂仏具店前)
大阪府の東部中央に位置する八尾市は、西は大阪市、東は生駒山系を境に奈良県に接しています。聖徳太子や弓削道鏡ゆかりの地で、奈良時代には難波宮と平城京を結ぶ磯歯津道(しはつみち)(今の八尾街道)も整備され、古くから文化の開けたところでした。
室町時代から江戸初期にかけては、寺院を中心にした町づくり「寺内町」(じないちょう)が形成され、自治的な町の運営とともに商業が発展し、八尾の基盤が築かれました。
やがて昭和23年、五力町村の合併により市制が敷かれ、現在の八尾市が誕生しました。
今回は、寺内町の町並みを残す久宝寺で、伝統の技を磨く松本仏壇製造所の仏壇蒔絵(まきえ)師・車田次夫さんを紹介します。
「大阪仏壇」の由来と八尾
車田さんの蒔絵が施された
「大阪仏壇」
車田さんは、昭和十六年、福島県境に近い茨城県里美村(現・常陸太田市里実地区)で4人兄弟の次男坊として生まれました。幼い頃から絵を描くのが好きで、細密な絵をよく描いていたと言います。実家は農業を営んでおり、当時、農家の場合は長男が家を継ぎ、他の子供達は家を出るのが当たり前という風潮がありました。里美村では中学校を卒業すると、ほとんどの人が都市部へ集団就職していましたが、車田さんは卒業間近になっても進路について決断を出せずにいました。
実は中学三年になった時、大阪で家具店を営む郷里出身の方から「仏壇に絵を描く仕事があるがやってみないか。大阪の仏壇蒔絵師が弟子を募集している。」という手紙を受け取っていたのです。車田さんは絵を描く仕事ならという思いはありましたが、「蒔絵」がどういうものか知らないし、同級生達の就職先も東京・名古屋方面で、一人で遠い大阪で働くのは勇気がいりました。
そのように思い悩んでいる時、同級生の父親が大阪に出稼ぎに行くことになりました。それなら思い切って一緒に行こうと、昭和三十一年、卒業式翌日の早朝に、車田さんは大阪から迎えに来た郷里出身の方と同級生の父親とともに旅立ちました。大阪駅に看いた時は、本当に心細く、初めての都会で感じた圧倒感は今でも時々思い出されるそうです。
漆を飲み込んだ修行時代
車田さんの師匠は、久宝寺の松本仏壇製造所近くに住居兼仕事場を構えていました。師匠は福井県出身で、戦前は南堀江で仏壇蒔絵師として働き、戦争を機に郷里に帰っていたのですが、同製造所の初代が腕を見込んで呼び寄せたのでした。
来阪した車田さんは、師匠の蒔絵を見た瞬間「これなら俺も描けるかな」と思いました。ところが、蒔絵が漆で描かれると知り「これは仕事にならない」と考え込んでしまいました。山間で育った車田さんは何度か漆にかぶれた経験があり、一度かぶれると二、三日は腫れが引かず痛がゆさに苦しんだものでした。しかし、「漆で死ぬことはない」と師匠に言われ、その一言で弟子入りを決意しました。
使い走りの日々が半年ほど続き、ようやく筆を持たせてもらってからは、貝殻を粉末にした「胡粉」(ごふん)を水溶きした下描き用絵具で、線を引くことだけが一年半続きました。蒔絵の線描きは全て一筆描きで、継ぎ足し描きで生じる小さな盛り上がりさえも許されません。繊細な線を一息に引くため、柔らかい蒔絵筆の穂全体を使って描きます。従って筆の持ち方も独特で、小指を支点にし、指先だけで筆を自在に動かすことが要求されます。
師匠は作業の指示を与えるだけで、蒔絵の描き方についてはほとんど教えてくれず、技を盗もうと見ていると使いに出され、帰ってくると肝心な部分は既に描き終えていることが常でした。そこで、車田さんは完成した蒔絵をじっくり見て頭に焼き付け、仕事が終わって一人になると障子紙を取り出し、自分なりに再現することを続けました。
やがて漆を扱うようになると、かぶれが全身に広がるようになりました。しかし、車田さんは早く免疫をつけたい一心で漆をオブラートに包んで飲み込み、しばらく目の充血や発熱に苦しみましたが、漆に負けない体質になりました。
勘働きと忍耐力
蒔絵特有の運筆
特注の蒔絵筆
仏壇蒔絵は山水、花鳥、鳳凰など画題が決まっており、一定の様式で描かれますが、全体の構成や細かい部分に描き手の力量が試されます。
そのため、山水画でも一つとして同じ絵はありません。まず、充分に構成を練りながら下絵を起こし、これを基に漆塗りした板に「胡粉」で輪郭線を描き、部分的に貝殻を加工した「螺鈿」(らでん)を貼り付けます。次に、粘土状にした「錆漆」(さびうるし)で盛り上げを施し、盛り上げない部分を「平絵漆」(ひらえうるし)で描き、色粉を蒔いてぼかします。今度は、「赤呂漆」(あかろううるし)で線画に立体感をつけるとともに水銀の粉を蒔いて磨き、光沢が出てきたところで金粉を蒔きます。
これらの工程の間には、湿気で乾燥する特性を持つ漆を「室」(むろ)(漆風呂)という密室に入れ、乾かす作業があります。漆の乾燥時間はその日の温度・湿度で異なり、金粉などは漆が乾いた後では乗らなくなるので、乾く寸前を計って「室」から取り出さなくてはなりません。さらに、粘性の漆を描きやすくする調合も必要で、樟脳油を(しょうのうゆ)一滴でも多く混ぜると画材として使い物にならなくなるため、非常に神経を使います。こういった微妙なさじ加減は口で教えられるものではなく、「蒔絵は勘働きの作業なのです」と車田さん。
緻密な作業の積み重ねで、完成までに約二十日間を要しますが、途中でミスをすれば蒔絵の前工程の板を漆塗りするところからやり直しです。完成寸前に汗が落ち、絵をにじませた経験を持つ車田さんは、夏場も極力水分を摂るのを控えるようになりました。
評価は人が決めるもの
昭和四十三年、車田さんは師匠から独立。八尾市役所近くに部屋を借り、松本仏壇製造所の仕事を続けることになりました。一人で仕事をするようになった車田さんは、絵の感性を磨こうと仕事の合間に歴史的建造物や草花などのスケッチを始めました。スケッチがそのまま蒔絵に生かせるわけではありませんが、屋根の形や木々の枝振りなど細かいところを描く上で大いに参考になったと言います。
「早く一人前になるより、いろんなことを吸収しながら一人前になった方がいい。他人が手を休めている時でも、自分は手を動かすだけの気概がなければ」と語る車田さんは、他人の作品を見ると自分ならどう描くかを考え、手が空けば紙に図案を描くことを習慣づけています。
試行錯誤の繰り返しの中で、下絵の段階で主となる輪郭線を彫刻刀で描くというオリジナルの技法も取り入れました。彫刻刀を使えば取り消しが利かないリスクを伴いますが、際立った線は仕上がりに差をつけます。 蒔絵は仏壇の扉を開けた時、最初に目に入ってくる見せ場です。その時に、「ああいい蒔絵だ」と思ってもらえるかどうかで評価が決まります。蒔絵の複雑な工程が今も残るのは、そのどれか一つが欠けても蒔絵にならないからだと言います。
「大阪仏壇」は、十一工程が各々専門家による独立分業体制で行われます。しかし製造効率を考えれば、職人達が一カ所に集まった方がよいということで、昭和五十五年、車田さんは仕事場を松本仏壇製造所に移しました。 松本仏壇製造所は、全てが手作りということにこだわり、後継者の育成にもカを入れています。車田さんは蒔絵部長に任命され、現在では師弟関係を結んで十八年になる阿尾(あお)さんと仕事をしています。蒔絵は「自分で納得したら終わり」と語り、伝統技術の継承者を育てながら「大阪仏壇」の商品価値を創造する車田さんです。
編集後記
蒔絵は「大阪仏壇」の見せ場です。が、蒔絵もプリント印刷で大量生産が行われています。しかし、手描きの気品と深みのある図柄にはとうてい及びません。八尾表町通り(通称:仏壇通り)には松本仏壇製造所の販売店(株)八光堂仏具店があり、車田さんの蒔絵による「大阪仏壇」が展示されています。表町通り付近が八尾寺内村、その西隣が久宝寺寺内町です。碁盤目状の町割が残るエリアに、日々切磋琢磨が続く伝統の技を訪ねてみませんか。